ペットボトルのキャップが開きにくい。最近のペットボルトはキャップが硬くなったんだと思っていました。もちろんそうじゃありませんでした。私の手の力が弱くなったのです。
それに気づいたとき、はっとしました。こうやってだんだん力が入らなくなってくんでしょうね。
よく「力を抜いて…」って言われてきました。特に新しいことを始めたばかりのときには何回も「力が入りすぎてる」ことを指摘され、「肩の力を抜いてね」とか「リラックスしてね」とか言われました。
力が入っているってことはいけないんだって思って、力を抜こうとがんばって、更に力が入る。そういう経験はありませんか?
ヨガのレッスンで、教わりました。ヨガのポーズの中でもっとも難しいポーズはサバアーサナ(屍のポーズ)だと。床にあおむけになり、からだの力をすべて抜いて、屍のように横たわるポーズです。硬い床の上に横たわると、力が抜けていない部分は床から離れてしまいます。平らで硬い床という存在があって、初めて自分のからだに自分では意識的に抜けないほどの力が入っていたことに気がつきます。
力が抜けないのは、今までなんでも力を入れるという方法でやってきたから。やったことないこと、出来ないこと、それらをがんばって出来るようになろうと頑張ってきました。長い時間をかけて、そういうものだと自分に信じ込ませてひたすら頑張ってきました。ふと気がつくと、なぜ頑張ってきたのか、その理由が思い出せなくなっている。多分なにかきっかけがあって、誰かに言われたのか、あるいは自分で決めたのか、おそらく今の自分ではない自分に努力してなろうとしたのでしょう。いずれにせよ、頑張る動機が、やりたくて楽しくて夢中になってやっているというよりは、むしろ頑張っている自分というものを誰かに証明するためにやっている。
もちろん頑張ることのすべてがよくないといっているのではありません。頑張った結果、出来るようになって、やり続けているうちに得意なことになったり、やっていること自体に夢中になって楽しめるようにもなります。そのことで可能性が広がったり、それが仕事になったということもあります。
新しいことをはじめるときは、やはりちょっと頑張る時期も必要です。最初からうまくいくわけはないんです。忍耐と根気、それも頑張った結果身につくものですよね。
「頑張り屋さんだね」って言われて嬉しかったこともありました。そのうち、頑張っていることを見せること、アピールすること、そういうことがかっこ悪いと思うようになり、すました顔して本当はすごく頑張っているっていうそういう自分がスマートでクールだと思うようになりました。その頃になると、頑張れないまたは頑張っていない自分に対して、とても厳しくなってきます。つまり頑張れない自分、頑張っていない自分が好きになれない。
同じように、頑張っていない人、努力していないように見える周りの人に対しても厳しいのです。厳しいってどういうことかといと、そういう人に批判や文句があるっていうことです。
誰かに批判や文句があるときというのは、自分自身にとても厳しいのでそれが他の人に対する文句というかたちで表れているだけです。特に身近な人、夫、パートナー、子ども、両親に対する文句は自分に対しての厳しさのあらわれなんです。
なんのために頑張っているのかを思い出せないっていうのはとても虚しい感じがします。頑張った結果、手にした成果や、それによってなれた自分自身をあまり楽しめない。がんばってせっかく手に入れたのに、少しの達成感はあっても思ったほど嬉しくない。
「力を抜いて」 始めたばかりではない今、そう言われるのは、むしろそのことに気づくためのサインなのでしょうね。
本当はどうなりたいのか、何が欲しいのかわかっていなくて、困惑している。ただ今のままでは自分はダメだ、愛されない、必要とされないって、愛されるために、必要とされるために、自分以外のなにかになろうとする。
本当になりたいのは、なんの役割も社会的な肩書もない、ただの私自身。本当に欲しいものは、子どもの頃のような、今この瞬間にある満足。
歯を食いしばって、手をぎゅっと強く握って、力が入った肩の先をとがらせて、そんなに頑張らなくても、本当は何が欲しいのかよく見てみればいいだけ。
大丈夫です。大人になっていくと、ペットボトルが開かないくらい力が入らなくなってくるんですから。
リラックスしましょう。
私はペットボトルは近くにいる誰かに「お願い」と言って笑顔で渡します。
だって、大人の女は頑張らないんですもの。