そこに月がある

台北街角

二元性を超える
これは大きなテーマでした。

二元性って?思われると思いますので、ちょっと説明しますね。

私たちがこれが正しいって思っているときには、必ず正しくないことがあります。正しいの反対には正しくないという反対側がある。これが二元性です。
自分が正しい側にいると、正しくないモノゴトにとても厳しくなり、そうならないようにより正しくあろうとします。

正しいと思うことには価値があって
正しくないと思うことには価値がない

いつも反対側があって、そっちにならないように気をつけて、エネルギーを使っている。
それが二元性の苦しみ。

私が囚われていた二元性は、
生と死

生きているんだから、
もっとイキイキしていなくちゃとか
楽しまなきゃとか
稼がなきゃとか
あれもしなきゃこれもしなきゃと
自分を駆り立てる感じ

どうせ死んじゃうんだからという、刹那的な感じ

その影にある死への恐怖
生きていることへの執着

変な表現ですが、生きることが死なないように頑張っていることになってしまう。

今生きていることを、本当の意味で味わえない。

なんだかなあ
です。

二元性を超えるとは、生と死という水平なあっちとこっちのどちらか?ではなくて、上の垂直方向に意識を向けるということなんですね。

平面ではなく、高さのある立体
3次元から5次元

わかるようなわからないようなですよね。

まあ、あれこれ考え悩みながら夜道を歩く歩いていて、見上げてみたらそこにお月様があって、美しい月を見たらあーよかったって思えるのに近いかな。

月はずっとそこにある。
見上げないとその存在に気づかない。

しばらく月を見ていたら、なんだかまあいいかって、大丈夫だって思える。

二元性を超える私の体験は、そんな感じでした。

上を向いてまいましょう。そこに美しい月があってよかったです。
そして、そう思えることが幸せです。