わたしの体験です。
子どもの頃、たくさんの夢をもっていました。
まだ文字の読めない頃から、絵本をひらいて物語をつくって読むこと大好きでした。裁縫箱のなかにあるボタンや、小石、なんででもどこででも遊べました。
絵を描くことも、うたを歌うことも、踊ることも大好きでした。自分の中からわいてくる物語やイメージを言葉にしたり描いたりすることに夢中でした。そして自分で作ったお話しが面白くてケタケタ笑っているそんな無邪気な子どもでした。
もう少し大きくなると、いろんなものになりたいっていう夢を描くようになりました。
父のように小説家になりたいと思ったり、母のように素敵なかっこうをして働く女性になりたいと思ったり、手芸を教えていた祖母のように何か作る人になりたいとも思っていました。
文学を志す仲間と同人誌をつくっていた父の影響か、小学校では学級新聞や友だちと二人で会報をつくることに夢中にもなっていました。
ある日気がついたら夢を語らなくなっていました。夢を思い描かなくなったのではなく、口に出すのをやめました。
どうして口にしなくなったのか思い起こしてみると、「ちゃんと習ったことがないからうまく出来ない」ってどこかで思ったようです。
私が子どもの頃、習い事が流行りでした。
ピアノ、習字、そろばん、バレエ、絵画教室などに通っている同級生は、クラスの中でも一目置かれる存在でした。
私は絵も物語も、もっとうまくなりたいって思うと同時に、自分には無理だって思ったんです。習い事をさせてもらうほど余裕がなかったのと、母は仕事に忙しくてあまり子どもに手をかける人ではありませんでした。
上手くできるかどうかっていうことが
純粋にだれのためでもなく、ただ自分を喜ばせるためだけにやっていたあらゆることを、
「ちゃんとできている?」という問いが自分の中に生まれた時からすっかり遠くに流れていっていまいました。
ちゃんと出来るようになるには、学ばなくてはならない。教えてもらわなくてはならない。
それが私の中に生まれたひとつの観念です。
学校を卒業して会社勤めをしながらも、大人になるためには学ぼうと思いました。
海外留学をしようとしたり、働きながら大学に行こうとしたり、インテリアコーディネーたーになろうとしたり、学ぶことで自分に足りないものを補おうとしていました。
子どもの時に出来なかった習い事を、自分の稼ぎで行こうって決めました。
今は上手くできるかどうかより、やりたかったことを自分にさせてあげようていう目的です。それは純粋に単純にただ楽しい。
逆に楽しめなかったらやりたくないです。学ぶって楽しいこと。
いつからでしょう。
ずっと何かにならなくちゃと思っていました。
その何かがわからないまま、その時目に入って、信じられるものになろうとしました。
クリエイティブな人になりたくて、クリエイティブな仕事をする人になろうとしました。
それがインテリアコーディネーターを目指したひとつの理由です。
クリエイティブな仕事をする人たちに囲まれていると、自分もそういう人になれたきがしました。
自分で仕事をしている人に憧れて、フリーランスになりました。起業という旗を揚げたつもりはなかったけど、どこにも所属していない人になったとき、自分が誰だかわからなくなりました。
結婚もしました。子どもを持ちたいと思いました。思う通りにはなりませんでしたが。
仕事で成功しようとしました。世の中から評価される人になろうとしました。
人の役に立つ人になろうとしました。組織の共同経営者にもなりました。
建築士にもなりました。
本当に自分が望んでいることが何なのかもわからずに、なにかになれば幸せになれるって思っていました。
私はただ、子どものときにはそこにあった喜び、ただただ自分の中から出くることばやお話しやイメージが面白くて仕方ない。自分の中から面白いことがどんどん出て来るから、いつでもどこにいても、おもちゃがなくても、一人でも遊んでいられました。
あの喜びをもう一度体験したかっただけなんだって、気づきました。
それだけなんです。
本当は何が欲しかったかを思い出してくると、上手に出来る人にならなくても、
人の役に立つ人にならなくても、優秀な人にならなくても、頑張っている人にならなくても、いいんだってことがわかるんです。
ものすごくパラドックスなのですが、自分は十分ではない、そういう思いから自分以外の人になろうとする。別の言い方をすると、自分が思い描く理想の自分になったら、幸せになれる、愛されるって思って努力する。
努力の結果、いつの間にか思い描いた理想の人になっているのに、自分では気がつかない。
気がつかないばかりか、一番欲しかったもの、幸せや愛されているという実感がない。
才能豊かな自分自身を楽しむこと、
他のだれでもない自分自身でいること、私が私でいることに価値があるっていうこと、
なにかができるからとか、そういうこととは一切関係なしに、今まで生きて通ってきたすべての経験、あの失敗も苦しかった経験も、全部全部必要なことだったんだ。自分が自分の価値を認め、自分を愛するにはその道を通ってきたから今わかること。
もっと楽に生きる方法、失敗して痛い想いをしなくてすむ方法、があったかもしれない。今の自分ならきっともっとうまくやれるかもしれない。
でもその時には今ほど知恵も経験も、そして余裕もなかった。そんな中でベストを尽くしてきた。
過去のドタバタした私を愛おしいと感じます。
それと同時に、本当に何が欲しいのかもわからずに、頑張ってきた私が可笑しい。
自分の魅力や才能を楽しめなかったら、いったいどうやって人の魅力や才能を楽しんだりできるっていうんでしょうね。
誰かと一緒になにかをすることって、相手の才能や魅力を味わえるっていうことももちろんですが、
お互いのヘンテコなおかしなところも、面白がれるっていうことじゃないのでしょうか。
誰しも自分が何か欠けているって思うと、長い時間と労力を使って、一生懸命欠けている部分を補おうとしています。まるで欠けている部分を補うための人生です。
でもあるとき、そもそも自分に欠けているのは、自分を楽しむっていうことだって気がつく。
そうして見えている世界が変わって、いろんなことが面白くなってくる。
年齢を重ねている人が、どこかふっ切れたように自由に、ある種わがままで無邪気に見えるのは、こういうことをすべて超えてきたからなんじゃないかしらって思うと、ますます年を取るっていいぞ!って思うんです。
子どもの頃のように物語がわいてきました。
「玉入れのおはなし」
いつからか、なぜそれをしてるのか、わからない。
私は運動会の玉入れみたいに、自分の頭の上に籠があって、足元の玉を拾っては投げ入れ拾っては投げ入れる。
それでもまだまだ足りないって思うから、必死になって玉を探してまた投げ入れる。
玉を拾うことに必死になっているから、拾う時に頭の上の籠が傾いて中の玉がざっと流れ落ちていることに気がつかない。
この不毛な感じに疲れを感じているのだけれど、辞めようとはなぜか思わない。
あるとき、目の前にやはり玉を拾って頭の上の籠に入れている人に出会う。
今までもだれかに人に会っていたのかもしれないけど、自分の籠をいっぱいにすることに忙しくて、他の人に玉を採られないように必死で相手の顔すら見ていない。
私は疲れ果てて、ちょっと玉拾いを休んでいたので、その人が目に入った。
その様子はなんだか変だ。拾った玉を頭の籠に投げ入れて、次の瞬間また拾うために下を向く。籠の中身は全部地面に…
その人は一度も、本当に一度も籠の中にたまった玉を見ようともしない。
なにやってんだ?って思わずクスッと笑ったときに、はっと気がつく。
私も同じことをしている。
なにやってるんだ?私たち
お互いにお互いのやっている様子をみて、あれ?変だって気づいて、そこで大笑い。
ばかばかしくて可笑しくて、へんてこで愛すべき存在。
みんな可笑しくてみんないい。
ひとりじゃ自分のことを笑うことも愛することも出来ません。
おしまい